嘘の上塗り

8月3日

私は地図が好きだ。古地図も幾つかコレクションしている。

手許に1761年の年号が付いた古地図がある。フランス語で書かれたアジア版図の地図だ。地形が随分歪になっているし、奄美沖縄諸島が抜け、逆に小笠原列島が、フイリッピンまで続いている。

日本海は朝鮮海と記されている。これを見たら韓国人は間違いなく狂喜するだろう。韓国は日本海を廃止して東海に改名する運動を国際的に展開しているからだ。

但し、当時の名称は地図によってまちまちだ。何と、太平洋を日本海と記載した地図まで登場する。名称が定まったのは19世紀の初頭になってからのことだ。

1692年、長崎の蘭館付き医者として来日したドイツ人のケンペルは、帰国後日本という大著を書いた。このなかに、元禄期の日本の地図から転載した日本地図がある。

1827年シーボルトは日本の地図を国外に持ち出そうとして幕府から咎を受けたが、彼の大著日本にも日本地図が出てくる。これは現在の日本地図と比較して遜色ない。

これは伊能忠敬が1800年から1816年まで、足かけ17年をかけて全国を測量し、正確な大日本沿岸輿地全図を完成させていたからで、シーボルトはこの地図を幕府の天文方から入手した。当時の幕府は、日本国地図を国外に持ち出すことを厳禁した。そのためにシーボルトにスパイの嫌疑がかけられた。

朝鮮で近代的な地図大東輿地図ができたのは1861年になってからのことだ。大東輿地図は朝鮮王朝時代後期の地理学者、金正浩が1861年に作成し、木版印刷で刊行した。但しこの木版本には独島が表示されていない。

昨日の韓国紙の報道によると、韓国東部の鬱陵島の横に独島日本名、竹島が描かれた、彩飾写本が新たに日本で見つかったという。

韓国紙の記事、

国慶北大の南権熙教授文献情報学によると、清州大の金聖洙教授文献情報学、富山大の藤本幸夫名誉教授と共に日本の個人が所蔵していた大東輿地図筆写本を調べたところ、折り畳み式の全22帖のうち14帖に、鬱陵島の右側に于山と記された小さな島が確認された。これは独島を指す。

1861年に刊行された木版本には独島が表示されていない。筆写本は木版本に手を加えて作成された。

南氏は1834年に完成した彩色の青邱図金正浩が作成した地図で大東輿地図の元になったを見ると、独島が鬱陵島の右側に描かれているが、これより後に作られた大東輿地図には独島がない。木版本で抜けた部分を後世で筆写本を製作する際に補ったと推定されると説明した。

南氏は日本で見つかった筆写本を韓国研究院の地図と大変よく似ているとした。鬱陵島の上方に于山島は鬱陵島の東側にあると記載されているという。官吏が鬱陵島視察を報告した年号の表現から、南氏は筆写本は木版印刷が刊行された1864年から1889年の間に製作されたといえるとの見方を示した。

この記事の言わんとしていることは、大東輿地図に後世筆写された如く、独島は韓国領であったと断定することだ。

TheKoreaTimesには鬱陵島並びに独島と彼らが主張する島の画像が添付してある。鬱陵島のすぐ側に干山とかかれているのが描かれているのが独島であると説明をしている。この記事を予備知識なく読んだ読者はそっくりそのまま真に受けてしまうに違いない。

鬱陵島衛星写真をみると、島の右側に干山を確認することができる。しかし、実際の独島は鬱陵島から92キロも隔たっている。大東輿地図は、金正浩が朝鮮全土をくまなく測量して完成させたものだ。そんなに隔たっている独島を安易に位置関係も考慮せず付加するはずはない。

おまけに実際の独島は二つの島から成り立っている。鬱陵島の傍らの干山が独島というなら、如何なる愚か者が二つの島を、一つとして表記するであろうか?

干山は本来小さな島だ。だからこそ記載が抜けた。官吏が見落しに気付いて後から付加したと考えるのが自然だ。但し、素人がドンブリ勘定で適当に書き入れたため実際よりも大きくなった。

国慶北大の南権熙教授文献情報学、清州大の金聖洙教授文献情報学、富山大の藤本幸夫名誉教授、いずれも碩学と見受けるが、誰が見ても、朝鮮全図大東輿地図に独島が明記されていたとは言い難い。独島領有問題の南朝鮮の主張を裏付ける史料としての価値はゼロだ。

韓国人は独島は日本本土からでは220km離れている。一番近くの陸地は韓国の鬱陵島で87kmの距離。天気さえよければ鬱陵島から独島を見ることができると主張する。

ところがこんな主張は領土権の正統性とは何ら関係がない。

こういう出鱈目を大的に報道し、嘘の上塗りをして騒ぎ立てねばならぬというのは、韓国自ら独島は自国の領土ではないと暴露しているようなものだ。

何時の日か、我は、侵略者をこの島から追い払うべきだ。

広告を非表示にする